ダンス教室のレッスンに夢中になる

昭和の男

<前回までのあらすじ>                                                                      大学に入って、「ダンパ(ダンスパーティー)」の券をもらったので、ダンスを習おうと、ダンス教室に通うようになった。                                                                                                                                                               言われるままに回数券を買ってしまった。何事も体験だとおもい教室に通いだした。                                                                 

午後の授業が休講になったとたんダンス教室の事が頭をよぎった。                                       照れ臭さと、恥ずかしさはあったが、ダンスの先生の「しっとりした手と柔らかな体の感触」、それと全身から匂ってくる「甘い香水の香り」を思い出し、バクバクと音を立てる心臓の鼓動を抑えながら早足でダンス教室に向かった。

扉を開けて入ると、一人の女性が鏡をみながら、誰かと踊っているかのように右手を肩の位置程度にあげ、左手を少し下げた位置に置いたまま音楽に合わせて軽やかに足を滑らせている。

少しの間それに見とれていた。

その女性は気持ちよさそうにステップを踏みながら目の前に来ると、そこで両手でポーズをとったままの姿勢で止まった。

そして顔を少し上げたところで、僕と目があった。

「あらっ」

すぐに両手をおろし、ニコッと笑みを浮かべた。

「こ、今日は」

心臓がドクンと音をたてた。

いきなり目の奥をじっと見られて恥ずかしかった。

「稽古の人?」

その女性はゆっくりと近づいてきた。

「は、はい」

慌てて先週もらった会員証をポケットから出した。

その女性はそれを受け取り、会員証と僕の顔を照らし合わせるようにまじまじと見つめた。

「ああ、北岡君ね」

会員証の名前を見てなれなれしく「北岡クン」と君づけでよんだので、一瞬「むっ」とした。

近くで見るとその女性は、目元に薄くアイシャドウをひき、真っ赤な口紅をつけていた。それがとても色っぽかった。

「北岡君は学生?」

「そうです」

「どこの」

慶應大学です」

「あら、私と一緒」

「学部はどこなの」

「経済です」

「そう。私は文学部」

そういうと顔をあげて、じっと見つめた。

「一年生?」

「はい。卒業生ですか」

「失礼ね。まだ3年生よ」                                                    その女性は口を尖がらせた。                                      

「す、すみません」

「ここによく来るの?」

「2回目です」

「誰に教えてもらったの」

「えーと名前は忘れました」

実際は電話帳で調べただけだけれど、それでは味気ないのでとぼけてみた。

「そう。まあ、いいわ。どこまで習ったの」

「ボックスとかなんとか」

「ああ、ワルツで最初にやるクローズドチェンジね」

聞いたことない言葉が頭の中を走った。

その場に固まっていると、「じゃあ、おさらいをしましょうね」と言って、音楽のスイッチをいれるとフロアの真ん中まで進んだ。

「ハイこちらに来て」

そういうと僕の手をとり、<グィッ>と体をひきつけた。

前回習ったように、左手で相手の右手を掴んで肩の位置にキープし、右手を背中に回した。

「そう、いい感じ」

先生にそういわれ、少し嬉しかった。

そして一緒に動いてみた。

「肩の力を抜いて」「肘は少し張って」

といきなり注意された。

一瞬体が強張るが、前回習った通りすぐに肩の力を抜いた。

すると、今度は「手はちゃんとホールドして」

とまた注意された。

少しの間、二人で同じ動きをしていた。

前回は訳の分からないステップに戸惑い、女性と体をくっつけた事で興奮して頭の中が真っ白になって体が強張り、何をしていたのか分からなかった。

今回は自宅でしっかり復習したおかげで、一緒に足を動かせて嬉しかった。

その女性は沢口智子といい、慶応大学のダンス部に所属していた。

結局その日は、ボックスの復習とワルツのステップを習っている間にレッスン時間の30分が過ぎた。

他に誰も来なかった。

もっとも、平日の午後に時間を持て余しているのは大学生くらいで、その多くは授業がなければアルバイトかパチンコか麻雀をやっている。                                                                                                                                             ダンス教室にわざわざやってくるのは自分くらいだろう。

その日は、先生に言われて、ボックスとワルツのステップの復習を家でやった。

今度会った時に「うまくなっている」とまた褒めてもらいたかった。                                                    褒めてもらったのは小学校でいい成績をとった時くらいだが、営業用のお世辞でも新鮮でとても嬉しかった。

特に沢口先生のような自分のタイプの女性には。

もっとうまくなって、もっと親しくなって、・・・と妄想が広がるが、それ以上の妄想が出てこない。

考えてみると、女性とデートをしたことがなかった。                                                          小学校の遠足で隣の席の女の子と一緒にお弁当を食べた事や、中学校の卒業式のあとクラスの男女数人で「こどもの国」に遊びに行ったことくらいだ。

高校生になると思春期のせいか、何故かお互いよそよそしかった。                                    確かに高校生になって読んだ小説では男女の事で色々ときわどい事が書いてあり、ときおりそんなシチュエーションになったらどうしようかと考えて興奮するのだが、自分には到底出来そうもない。

本の中の妄想で楽しんでいるだけだ。

その晩、沢口先生は夢の中に出てきて、僕を誘惑した。

「もっとしっかりとホールドして・・・」

体をぴったりとくっつけてきた。無意識で自分の体も反応した。

空気の入る余地のないほど二人の体がピッタリとひっつき、先生のなまめかしいボデイラインが自分の皮膚を刺激する。

服を着ているのかさえわからない感覚。

先生の心臓の鼓動が自分の体を通し頭の中に聞こえてくる。

先生の甘い香水の香りに包まれ、二人がひとつになりクルクルとまわっていた。

お陰でずっと興奮していて寝たのか寝られなかったのかよくわからず、朝鏡を見ると目が血走っていた。

「なにニヤついてんのよ、朝から。気味が悪い」                                                      朝食をとろうとリビングにやってきた姉が僕の顔をみて言った。

その日は朝から大学に行き、沢口先生とキャンパスで会わないかとキョロキョロと周囲をていた。

「誰を探しているんだ」

学食で食事をしているとき山岡が不思議そうに尋ねた。

「別に」

山岡が自分の視線をじっと追う。

「好きな女の子でも出来たのか」

「いや・・・」

山岡の一言で目を動かすのを辞めた。

「なんかお前へ最近へんだぞ」

「変って?」

「この間駅で電車を待っている時、躓きそうになりながら変な足の動かし方をしていたし、今日はやたらキョロキョロとあちこちを見てるし・・・挙動不審だな」

山岡には自分がダンスを習っているとは言ってなかった。

【初心者向け】社交ダンスの始め方!みんなはどうやって始めたの?? | Dance Lavie

翌日の午後、ダンス教室に電話した。

「今日はやっていますか」

「ええ、毎日午後2時から開いています」

そんなことは知っているが、もしかしたら沢口先生の声が聴けるかと思った。

「今日の午後の先生は誰ですか」

「川本先生です。どなたかご指名の方はいますか」

「いえ、また電話します」

結局その日はそのまま電話を切り教室には行かなかった。

翌日も電話したが同じだった。

あまりしつこく電話して「しつこいヤツ」と思われたくなかったのでそれ以降は電話しなかった。

そうはいっても、ダンパは迫っている。

◆翌週、沢口先生に会った同じ曜日にダンス教室を訪れた。

扉を開けるとひとりの女性が少しテンポの速い音楽に合わせてメリハリのあるきっちりとした動きで踊っていた。

これまでとは雰囲気がちがう。

スタジオ全体がその女性を中心に張り詰めた空気に支配されている。

少しの間その女性の動きにみとれていた。

背筋がスッと伸び、体全体が一本の線で繋がっている。しかも頭は動いていない。

足で床を蹴って動いているというより、幼い頃遊園地でみたメリーゴーランドのようにクルクルと床の上を滑っている。

暫くして音楽が終わると同時にポーズをとってその女性の動きはピタッと止まった。

よく見ると、鍛え上げた太腿の筋肉がスカートにピッタリと張り付き、その下にも肉付きのいいふくらはぎがついている。

その女性は自分に気づいたのかポーズをといた。

「あら、いらしていたの。練習生なの」

「は、はい」

緊張して声が上ずった。

「えーと、どなたかしら」

その女性は入り口まで歩いてくると、机の上に置いてある名簿を取り出した。

「北岡と申します」

緊張感から丁寧な言葉が出てしまった。

「あー、北岡君ね」

また馴れ馴れしく名前で呼ばれてしまった。

「じゃあ、稽古をしましょうか」

「え、・・・」

先ほどみとれるくらい上手に踊っていた女性に素人の自分が教わるのはどこか恥ずかしかった。

「じゃあこちらに来て」

歩いていくと、いきなりその女性が目の前に「すっと」現れた。

慌てて一歩引き下がった。

「何をしているの」

「いえ、距離が近いので」

「ダンスを踊るのだから、離れていてはダメでしょ」

その女性にそういわれると「はい」と一歩前に動いた。

その女性は突然なんの気配もなくワープするかのように目の前まで来ていたので面食らったのだ。               そして気が付くとその女性の手は自分の肩と腰をしっかりとホールドしていた。

―すべてが自分の想定外の動きだー

そしていつのまにかその女性の手のひらの上に乗っているように動いていた。

「どう」

ひととおり踊った後、先生が自分の目を見て訊いてきた。

「楽しかったです」

「よかった。ダンスは楽しくなくちゃあ」

「そ、そうですね」

先生の言葉につられてなんとなくこたえた。

「でも、本当は男の人がリードしなければいけないのよ。まだ無理でしょうけど」

「あ、そうですね」

何か自分の心を見られているようで恥ずかしかった。

「で、ダンスをどうして始めたの」

「えーと」

答えに窮していると、先生は口元に笑みを浮かべた。

ダンパなの?

「え、え」

一発でバレてしまった。顔が火照っているのがわかる。

「そういう人って今頃、毎年来るからわかるは。特にあなたの様な真面目な学生さんはね」

その日は、基本的な足の動きの復習をして、今度までにマスターしてくる課題を与えられた。

これまでの先生のように「自分も一生懸命やれば出来そうだ」と思えるようなレベルではなく、全くスキのない完璧な「プロ」だと思った。

後でわかったのだが、先生の名は助山かおる。このダンススタジオを経営しているオーナーの娘で競技ダンスで優勝もしたことがある先生だった。

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